TEDDY MARKET

2026/05/21 19:31

社会と自分の関係性をデザインする


最近、ひと回りほど年上の知人と雑談をしていて、彼女は「ファッションが苦手」だと話した。

なんの話だったか、普段古着屋を経営しているわたしはどんな基準でお洋服を選んでいるのかといった話題からだったと思う。彼女とは、かなりプライベートな(仕事ではない)場面で会うことが多いので、「わりと変わったデザインやおもしろいモノをピックすることが多いですよ」と伝えると驚いていた。

近所を歩くときや自宅で仕事をしたりしているときは、頭を使わないシンプルな格好をしていることが多いから、話しやすかったのかも知れない。

わたしは「ファッションが苦手」にかなり興味がある。何に引け目を感じて、何に引っかかっているのか。そういう苦手意識を取り除くにはどうしたらいいんだろう。ファッションは、わたしたちを生きやすくすると信じているから、生きていく上でひとつの武器として提案したい、とわたしはいつも思っている。


例えばファッションへの無頓着は、実はルッキズムを呼び寄せる。ファッションを疎かにするほど、持って生まれた身体の美醜での評価から抜け出せない。そりゃあ、パリコレモデルと一般人が同じ白いTシャツと同じデニムを着たら、美醜は生まれ持った身体しか評価する基準がなくなってしまう。ファッションへの解像度が低いことは、自分にも他人にも「顔」や「身体」の評価基準から逃げられなくなってしまうことだ。

でも、わたしたちは白いTシャツとデニムを揃って着なければいけないわけじゃなくて、装いは自由だ。ファッションは突き詰めるほどに、例えばのっぺりした顔にこそ似合うスタイル、ふくよかであることでこそ成り立つスタイル、低い身長でこそ輝くスタイルが存在しているように感じる。

そういった装いは、身体やパーツの美醜を越えていく。個人というまとまりとしての美しさが際立つ。


でもそんなとき、苦手な人はきっと「わたしにはセンスがないから…」と考えるかも知れない。けれど、センスとは知識に直結している。たくさんのお洋服を試着してどのシルエットが自分をどのように見せるかを知ること、洋服のデザインやディテールの歴史を知ること、ブランドの思想や流行の源流を知ること。じつは「センス」とは持って生まれた特性ではなくて、それらの知識から今自分がそうありたいものをピックアップして繋ぎ合わせること。それこそが「センス」だ。

ただ興味がないとそれらの知識を自分で得るのは難しいかもしれない。そんなときに、店頭に立つ販売員は大いに役立つ。けれど、苦手意識を持つ人が比較的足を運びがちな低価格帯のお店であるほど、上質な接客教育や顧客作りに資金が割かれず、疎かになりがちだ。その結果、「今売れればいい」といった粗雑な接客を受けてしまう。そうしてより苦手意識を強固にするというジレンマ。

上質な接客というのは、その人の生活スタイルを知る。その人のありたいイメージを理解する。その人のクローゼットの中を知る。そういった中で、その人の生活をアップデートする提案をする。そういうことだと思う。

だけど、そのような販売員を見つけるのはもしかすると至難の業なのかも知れない。アパレル不況と言われる中、その日の売り上げや今売るを重視されがちなのが現状だ。長い目で売り上げを作る高価格帯の店舗や、思想を持った個人店などではまだ出会いやすいのだろうか。世知辛い。

世知辛いけれど、だからこそ装うことは「おしゃれすること」ではなく、「自分と社会を繋ぐ接地面をコントロールすること」だと定義し直してみるのはどうだろうか。そう考えると、ファッションは、単なるおしゃれや流行の枠を越えて、もっと社会的な活動であるとわかる。


少し話は変わって、ファッションで人はよく「個人の意思」を去勢する。例えば、学生に制服を着せること。それは「個人の意思」を無くして「○○学校の生徒」というアイデンティティを与えることで、子どもたちを管理しやすくする。制服とは個人を消し去り管理する象徴なのだ。その管理に反発する子どもたちは、制服を改造したり着崩したりすることで、「個人の意思」を取り戻そうとする。それは管理に対する必死の抵抗にも見える。一方で警察官の制服は、敢えて「個人の意思」を制服によって消し去り「組織の意思」であると示すことにひと役買っている。


だけど洋服とは、ザラついていて息苦しさも感じるこの社会という場所と、自分の内面が触れ合う唯一の接地面だ。この接地面を自分で設計することは、社会との関係を紡ぎ直すことでもある。ファッションとは、「自分が社会とどんな風に関わりたいか」なのだ。その手綱を自分で握ってみてほしい。

わたしは「ファッションが苦手」と話した知人に、もっとおしゃれになってほしい!とは特に思わない。ただ消去法じゃなく、「自分が社会とどう接したいか/自分が社会からどのように扱われたいか」という視点で洋服選びができたら、たとえいつもと変わり映えしなくても、この社会で過ごす日々が少しだけ生きやすくなると思うのだ。


そういう視点で考えているからか、最近流行っている個人でお客さまの洋服選びに付き添うパーソナルスタイリストという人々をなんとなく苦々しく見ている。彼らがよく発信する「似合わせコーデ」や「キラキラしよう」「○歳以上でも輝くスタイル」なんて文言が苦手だ。

ファッションはキラキラするためだけのものじゃないし、どんなに地味で無頓着にしていても(むしろ無頓着なほどに)、ファッションからは思想が漏れる。だからそれは単なるキラキラした自己表現のための趣味ではなく、生活インフラなのだ。そして自分の意思と社会を繋ぐ、調整弁なのだ。似合っていても、輝いていても、キラキラしていても、自分の生きたい日々への意思が宿っていなければ、なんの意味もないし、居心地が悪い。

「衣食住」という言葉がある。これは人間が社会的生活をする上で不可欠な要素を上げたものだ。装うことは「この社会でどう生きるか」を写し出す。それを自らコントロールすることは、この社会との関係性をデザインすることでもある。

ファッションに苦手意識があっても、「このブラウスがわたしと社会の関係をどんなふうに創るんだろう?」と考えてみると、なんだかとても生活で、社会と生きることで、それっておもしろくない?




Writer : Hazuki SUEISHI 

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