2026/06/11 15:20
ボディポジティブでいられない
─ストリートからランウェイまでを占領する痩せ願望について─
わたしは長いことわりと痩せ型だった。だけど最近、年齢のせいか運動不足か長年の不摂生のせいか(ビールの飲み過ぎか)太ってきた。
近年「ボディ・ポジティブ」という概念が出てきて、自分の身体をそのまま愛すという考え方をわたしはすごく素敵だと思うし、社会の希望だと思っている。
それなのに、鏡に映る丸みを帯びた身体を見るたびに、座った時お腹の柔らかさを感じるたびに、わたしはどうしてもそれらに対する嫌悪感が拭えない。「ボディ・ポジティブ」という爽やかな言葉で解消しきれない自分の身体への気持ち悪さ。
よくよく考えてみれば、若い頃からずっと「痩せていたい」という思いは潜在的にあって、中高生の頃から今に至るまでずっと食事をするときは常にその考えがチラついていた。
日本や韓国の女性は、世界でも特に低体重女性が多く、しばしば問題視されている。なぜここまでわたしたちは痩せていることにこだわるのだろう?何がそこまで、脅迫的なまでに「痩せ」を信仰させ続けるのか。
抵抗の痩せ願望
わたしはもしかすると、この日本で蔓延する女性の痩せ願望は、性的な客体化への抵抗なのではないかと思った。女たちの多くは不特定多数の人間から「エロい」とか「子どもをたくさん産めそう」とか、そんなふうに思われることに怯えている。
痩せたいと言う女性に対して「ガリガリに痩せてるより、ちょっとムチムチしてる方がエロくて可愛いよ♡」という男性は多い。肉感のある身体は、それだけで男性の性的視線を集める。時折ウェブサイトで突拍子もない性的広告に出会うとき、そこには大概大きな胸を持ち肉感のある腿を携えた豊満な女性像が示される。
「なんか最近太ったかも。」と言ったわたしに、元彼は「そうだね、エロい身体になってきた。」と笑った。冗談のような軽口だったのであろうが、その言葉がべったりと脳裏に張り付いている。
恐らく、女性と男性に「女性の理想の体型」をアンケートした場合、その結果にはかなり男女差が生じるだろう。女性の極端なまでの痩せ願望は、それらに対する抵抗かもしれない。
痩せ願望は単なる願望に留まらず、ときに身体の健康や生命をも蝕む。日本において、拒食を伴う摂食障害の患者のうち9割以上が女性で10代~20代に特に多い。精神医学の世界ではその要因の1つとして、肉感ある大人の女性の身体になることで、周囲の男性から急に「性の対象」として見られることへの強烈な嫌悪と恐怖、それに対する無意識のストライキであると考える学者もいる。
ふくよかなミロのヴィーナス
紀元前2世紀頃に製作された彫刻「ミロのヴィーナス」をきっと見たことがあると思う。

それから、ルネッサンス期に描かれた「ヴィーナスの誕生」。

これらで表現される女体を見て、わたしたちは恐らく少しばかり太り過ぎだと思うのではないだろうか。健康的な肉体ではあるが、なりたい憧れの体型かと問われると、多くの女性が首を横に振る気がする。
こういった歴史的芸術作品も、当時誰が作品を制作させたのか誰が資金援助したのかを考えてみると、特権階級にある男性たちの目を楽しませるためのコンテンツだったことは想像に難くない。
だから彼らのエロティシズムを満たしたり健康な後継を産む器の表現として、芸術の世界でさえも長らく女性はふくよかに描かれてきた。
何百年も前からそのように表現され、そして現代「少し太ってる方がエロいよ」と言う男性たちに至るまで、長い長い歴史の中で「ふくよかな女性」とは、エロと子どもを産む器としての記号だった。
女性たちは、性の対象や子どもを産む器という男性に都合のいい身体からの逃避として、極端なまでの痩せを望む。
ジェンダーギャップと低体重
ここまで考えてみると「男性がどのように女性を扱ってきたか」と女性の痩せ願望の間に、大きな相関関係が見えてくる。

日本や韓国は世界的に低体重女性が多いとされているが、日本の厚生労働省をはじめとする各国の健康機関とジェンダーギャップ指数を比較してみると、日本のジェンダーギャップ指数は先進国では最下位レベルの110位以下で20代女性の低体重の割合のは約20%。韓国ではジェンダーギャップ指数が100位前後で20代女性の低体重は約15-18%。一方アメリカでは、ジェンダーギャップ指数が40位以上、20代女性の低体重の割合はなんとわずか2-3%だ。
これらの数値を見ると、日本の女性たちの痩せ願望は単なる「ダイエット依存」や「歪んだ願望」、「女性たち同士によるルッキズムの加速」とは片付けられなくなってきた。
ジェンダーギャップ指数の高いアメリカでは、女性が1人の人間としての主体性を比較的獲得しているため体型によって男性からジャッジされたり搾取される場面が少ない。
一方ジェンダーギャップ指数が極端に低い日本では、未だ女性は男性に品定めされる客体的存在で、太っただけで簡単に「エロい身体になってきた」と評価されるプールの中に強制的に放り込まれることに怯えている。
韓国でもおそらく同じようなことが起きているのだと思う。
痩せによって守られるランウェイ
先日VOGUEの「ファッションは多様性に向かっているのか──広がる年齢差と停滞するサイズ・インクルーシビティ」という記事を読んだ。
大筋は、ランウェイでのモデルの起用において近年「多様性が大事だよね」と叫ばれるわりに、高齢モデルを起用するなど年齢の多様性は受け入れ始めているけれど、一方で身体の大きなモデルはごく僅かで依然として痩せたモデルばかりが起用されている。というファッション業界の多様性への怠慢を指摘する文章だった。
その理由として、記事の中ではサイズインクルーシブを実現するにはデザイン工程の根本的な見直しが必要で、経済的な観点から後回しにしているのではないか。といった問題点が挙げられていた。
わたしはこの記事を読んで、なんだか釈然のしない気持ちで首を捻った。
ランウェイのファッションは、単なる華美なデザインの発表会ではなく、社会を見つめ再構築していく目線の思想を煮詰めて可視化したようなものだ。あれはデザインではなく思想だと考えるのがわたしは正しいと思う。
その思想を伝えるために、プラスサイズモデルが必要だとすれば、たった1着のドレスを作るために何千時間を費やしてオートクチュールを築き上げる彼らが、デザイン工程を根本から見直す程度の手間を惜しむだろうか。
モデルの体型の多様性がランウェイにおいてなかなか受け入れられないのは、ファッション表現の世界において、もっと根源的な思想に起因しているのではないか。
その理由は、ファッション業界が常に性的な匂いを排除してきたことにある。
1900年代初頭、初めてファッションショーが行われた当時、それらはクローズドに女性顧客だけが招待され、「男子禁制」の場だった。女性が人前肌を出すことすらタブー視されていた時代に、男性の視線が入った途端、その会場は「衣服の美しさや新しいシルエットを提案する場」から「男性を誘惑するためのエロ」として消費される場に変わってしまうからだ。
その後1920年代、ココシャネルは、それまで男性の目を楽しませる為に胸やお尻を強調し「性的な肉感」の象徴だったコルセットを排除して、あえて身体を平にみせるような直線的なシルエットを提案した。
1980年代にはコムデギャルソンの川久保怜やヨウジヤマモトの山本耀司の「黒の衝撃」の時代。彼らは全身をすっぽりと黒で包み、左右非対称で身体のラインを不明確にし、「性的な肉感」を排除した。
これらのランウェイの歴史を踏まえると、ファッションの世界はいつも「エロ」という肉感の性的消費に抵抗してきたことがわかる。
だからそれらを着せられるモデルたちも、必然的にデザイナーたちの「エロへの抵抗」を表現する為に徹底的に肉感を落としたガリガリの体型が選ばれた。
例えば、ランウェイには度々、過度な露出のデザイン、ショーツのようなデザイン、果ては乳首が透けたシアーな素材だけで作られたデザインが登場するが、それらはAVにならないし、性的消費されない。
ふくよかな体型のモデルたちがそれらを着せられていたらどうだろうか。先の項でミロのヴィーナスの時代からふくよかさは男性のエロと欲望、産む器としての対象として見られてきたことは分かる。
だから恐らくモデルの体型の変化だけで、それらは一変してエロの対象へと成り下がってしまうだろう。どんなにそのデザインが女性の解放や崇高な思想のもとに作られたとしても、性的消費されてしまえば思想は掻き消され男性の欲望を煽る記号でしかなくなってしまう。
そんなファッションの根底に流れる性を排除する思想のDNAが、サイズインクルーシブを拒んでいるのかもしれない。
痩せからの解放、本当のボディポジティブ
わたしたちは多分、痩せることによって性的な眼差しや産む器としての消費と、ずっとずっと戦ってきたのかもしれない。
社会構造を変えないままに「ボディポジティブ」「ありのままの自分を愛そう」と素敵な言葉に包まれ提案されても、女体として消費される恐怖や危険は変わらない。だからどんなに必死で自分の身体をそのまま愛そうとしても、根底の部分でわたしたちの心はそれを受け入れてくれない。晒されている現実は何も変わっていないのだから。
わたしたちが、極端な痩せ願望から解放されて、本当のボディポジティブを受け入れられるようになる為には、まずは社会の視線が変わらないといけないのかもしれない。
