TEDDY MARKET

2026/07/19 19:33

ファッションの墓場

ファストファッション、ウルトラファストファッションが覇権を握る昨今だけど、カルチャーとしてのファッションは今、墓場に向かっているんじゃないだろうか。ファッションはカルチャーか、それともトイレットペーパーか。


先日、元MARNIのデザイナーが新しく就任したGUの新シーズンコレクションのルックが公開されたみたいだ。SNSでは「GU×マルニ最高すぎる!」「まるでハイブランドみたい!」「高い服買う必要なくなった!可愛すぎる!」みたいなコメントがたくさん流れていた。

公開されたルックを見てみれば確かに可愛い。配色や柄使い、シルエットの極軽微な違和感は、さすが元MARNIのデザイナーといったところ。それらのアイテムは2,990円みたいな、ちょっとしたランチ代くらいの価格で並んでいた。それを見て、わたしは安価にメゾンブランドのデザインが手に入ると狂喜乱舞してもいいものか…と頭を悩ませた。

件の元MARNIのデザイナーっていうのは、PRADAで10年、MARNIではクリエイティブディレクターを9年勤め上げたフランチェスコ・リッソという人で、恐らくだけどPRADAで培った「美しさを崩した違和感」の表現を如実にモノにした人間だと思う。fashionsnap.comでは彼の功績を、MARNIに違和感を持ち込んだと評していた。それはMARNIらしい大胆なモチーフを守りつつ、徹底したベーシックなアイテム、ベーシックなシルエットに違和感を加えたものだった。

それで、いくつかのファッションメディアの記事を読みながら、だとしたらファーストリテイリングの中でもなんでGU?とかって思った。彼が違和感を与えてきたベーシックはUNIQLOこそめちゃくちゃ強い。

フランチェスコ・リッソはWWDのインタビューで、ラグジュアリーブランドからGUのような大衆ブランドにキャリアチェンジした理由をこう語っていた。

理由はシンプルで、より多くの人々とつながるチャンスだと思ったから。ラグジュアリーの価格高騰には歯止めが効かず、それを楽しめる人々はますます限られてきている。私や同世代の友人たちでさえも、昔ほど自由に買い物ができない。果たして、優れたアイデアを手にするために、必ずしも多額のお金を払う必要はあるのだろうか。こうした思いが、この新しい冒険の旅を選んだ大きな理由だった。今の時代、多くの人々がアクセスできる服の価値は尊いし、本当の意味で人々をつなぐ力があると思う。

WWD 
元「マルニ」デザイナーのフランチェスコ・リッソはなぜGUに? 本人が明かすラグジュアリーの閉鎖感、デザイナーとしての変わらない使命

次いでfashionsnap.comは、彼の移籍に「違和感の民主化」と意味付けした。

だとすれば、UNIQLOではなく、より低価格でより流行の回転が早いGUであるほうが、新しい価値観を高速で実験検証し民衆化するのに好都合かも。

一方で、優れたデザインのカーディガンが2,990円。この裏には何があるのか。ファーストリテイリング社は、国内では透明性の高い経営や従業員への手厚い福利厚生など社会意識が高い会社だと評価されているけれど、国外の委託工場では過酷な労働環境をNGO等から指摘を受けるなど、人権や労働環境に問題を抱えた上での安価な価格帯だとはあまり知られていない。

また縫製や生地の品質はどうだろう。いくらラグジュアリーの良質なデザインを持ち込んでも、粗雑な縫い目やペラペラの生地では、その服は10年残らないだろう。(元々GUの洋服はもってワンシーズン、それ以降は破棄するしかないようなイメージだ。)

ワンシーズンで使い捨てられる洋服を、低い賃金のために過酷な労働環境で縫い続ける人々がいるんじゃないか…そんな疑念が晴れない。そしてSNSで大量に拡散された「元マルニ×GU最高!」という投稿さえも1週間もすれば消費し尽くされて忘れ去られるんだろうな。商品も話題も、大量生産、大量消費、大量破棄。

話は少し変わって、わたしは古着屋なんだけど、二十歳の頃は今売られている洋服もきっと20年30年経てば古着やヴィンテージになるんだと思っていた。でもどうやらそうじゃなさそう。

その理由はやっぱり大量生産によるところはありそうだが、実際のところ90年代以前のGAPや今でいうプライベートブランドと同義のストアブランド(J.C PennyやSears,Montgomery Wardとかが代表的だよね)は、大量生産だったけど古着としての価値は高い。

それは多分、当時の技術的にもまだテーラード(注文されて服を仕立てること)の慣習が残っていたことと、現在のファストブランドと比べてアメリカンカジュアル、ワークウェアなど特化したブランドイメージを製品に落とし込む余白がまだ存在していたことが要因だと思う。

一方で、現代のH&MからSEIN,TEMUのようなファストブランド、ウルトラファストブランドは、「今まさに市場で流行っているモノを、いかに早く作り売るか」を競い合う。新しい流行を作ることやブランドイメージを構築して世の中に投げかける作業は博打でもあるから省略されるし、そのスピードの中ではテーラードの確かな技術より画一化され簡略化された製作工程が優先されるし、ブランド哲学なんていうアルゴリズムで測れない概念を製品に乗せる余白はない。

おそらく、今売られているほとんどの服は10年経っても20年経っても、古着やヴィンテージとしての価値はつかないだろう。

それらの洋服は、ファッションという文化物ではなく、消耗品になってしまったんじゃないか。ペラペラの生地でワンシーズンも着れば系はほつれ、流行っているから需要があるからというだけで作られ1年でゴミ箱に投げ込まれる洋服から、何を受け取り何を継承できるというだろうか?買って消費して人の心に何も残さず捨てられる、それはほとんどトイレットペーパーと同じだ。

こうやってファッションカルチャーは死んでいく。ファッションのカルチャーは墓場へと向かっている。

じゃあ、ここまで連呼してきたカルチャーってなんなのか。カルチャーとは、世代や個人を超えて生活様式や価値観、知識、習慣を共有していくことだ。

ファストファッションが世の中に台頭してくるギリギリ前、90-00年代を見てみるとファッションは比較的社会の中で共有されるカルチャーだった。例えば今は漫画とファッションはかけ離れた存在のように思えるが、かつてNANAの登場人物はVivienne Westwoodを熱狂的なまでに愛用していたし、岡崎京子の描くフリーターの女の子は、光GENJIの話と同列にヒステリックグラマーやアニエスベーについて話す。

たしかにどちらかというと「おしゃれ系」なんて言われるような漫画だったかもしれないが、漫画の世界では知らない人がいない巨作で、その読者たちとそれらのファッションやブランドが意図するものを共有していたと分かる。

一方現代では多数の人にとって洋服とはファストブランドが提供する消耗品で、Vivienne Westwoodやヒステリックグラマー、アニエスベーは特定のニッチな界隈の特殊な趣味になってしまったんじゃないか。岡崎京子が女の子に「アニエスベーの洋服が欲しい」と言わせた意図は、どれだけ正しく伝わるだろうか。

ラグジュアリー出身のデザイナーのようなファッション業界のトップランナーたちが、ファストファッションに加担していくことは、カルチャーとしてのファッションの終焉をさらに加速させるんじゃないかな。

フランチェスコ・リッソがMARNIで手がけた洋服は、着る人に意味を与え、10年後も高い価値がつけられるだろう。一方でGUで手がけた洋服は、流行として消費され、1週間で消えるSNSの話題のように、来年には何も残らないだろう。

業界の最先端を作ってきた人間が、「持続可能な洋服」ではなく「1年で破棄される服」の大量生産を肯定することは、自らファッション業界の首を絞めていくのかもしれない。

わたしは、18歳の時にバイト代を叩いて買った洋服を25歳でやっと着られるようになった。今ではお気に入りのワードローブのひとつだ。大切に買った洋服の重たい思想にどうにか似合う自分になりたくて頭を悩ませ、ある時ふと気がつくとその洋服と肩を並べて歩けるようになる。それが等身大の自分になる。

古着屋で働く人間は、時折洋服のことを「この子」と呼んだり「お嫁に行く」と言ったりする。これはたまに業界の外から嘲笑されることもあるんだけど。でも、それって洋服をただの製品ではなく作り手の思想やかつての持ち主の物語が宿った魂あるものを扱っているという敬意があるんだと思う。

洋服を消耗品だと考えるのもひとつの価値観かもしれない。これから先わたしたちは、使い捨てのトイレットペーパーを着飾って消費し続けるのか、思想やカルチャーを纏うのか。